
平安時代になると都では藤原氏が力を伸ばし,摂政や関白の職につき9世紀の中頃から政治の実権をにぎるようになりました(摂関政治)。そのため,国司として地方に下った貴族や天皇の子孫の中には,そのまま朝廷の権威を利用して,その土地に住み着くことが多くなりました。桓武天皇の子孫である平氏も坂東に住み着き,坂東平氏となったのも同じ理由からでした。この平氏の一族は,常陸・下総・武蔵・相模などを治める役人となり,やがてこの地域の民衆をまとめ,武士の
「平将門像」
(茨城県坂東市・国王神社所蔵)
東国平氏勢力図
(小学館版「学習まんが日本の歴史⑤」より転載)
関東一円をまきこんだ平将門の乱は,将門が935年(
939年(
やがて,将門は「
「
かしげている首に注目
五輪塔(大井
左・「
右・「将門神社・放れ駒」(柏市岩井)
こうして,将門の乱は収まりましたが,『将門記』には「稲束を田に数きつめて人馬がわたった」とか「幾千の人家を焼いた」など,戰乱の激しかった様子が記されており,各地に伝説が残されました。また,将門ゆかりの地である下総地域には,時の権力者に反抗し,国司の圧政に苦しめられた民衆が,将門を英雄として崇める将門信仰が受け継がれています。
8世紀以降,班田収授法をもとにした土地制度は,公民の逃亡や荘園(豪族の私有地)の拡大によってしだいに崩れていきました。広大な未開地を残し
た下総一帯も,9世紀に入ると荘園がさかんにつくられましたが,多くは平氏一族のものといわれています。将門の乱の後,相馬郡は将門の叔父
1130年(
相馬御厨から伊勢神宮には米・畑作物,
古代の相馬郡域と相馬御厨の四至(『千葉県の歷史通史編古代2』より)
花前遺跡は鉄生産の専門的な工人の工房跡と考えられ,原料から製品を仕上げるまでの一貫した生産工程が行われていました。
(9世紀中頃〜10世紀後半)
古代の鍛冶工房(イラスト佐藤喜一郎)((財)千葉県教育振興財団提供)
( (財) 千葉県教育振興財団提供)
花前遺跡の鍛冶具「かなはし」(熱して半分とけかけている鉄をはさむ道具)
上のイラストの中から「かなはし」をさがしてみよう