2  境根原 さかいねはら の決戦(室町時代)

 

「この盛り土の中には何が埋められているのかな。」
「この場所で戦った大勢のさむらいがまつられているそうよ。」

境根の首塚・胴塚(光ケ丘)

 

(1) 南北朝の争いの時,千葉氏はどのように行動したか

鎌倉幕府が滅亡する時,千葉氏は南朝( 後醍醐 ごだいご 天皇ら)に味方する一族と北朝( 足利尊氏 あしかがたかうじ ら)に味方する一族に分かれました。相馬氏の多くは,南朝の 新田義貞 にったよしさだ に従い,やがてライバルであった足利尊氏に滅ぼされてしまいました。また,北朝に味方した千葉氏は,守護となり下総国をそのまま領有することになりました。
その後,柏周辺を領有してぃた相馬氏の一部は,領地の広ぃ 奥州 おうしゅう を領有する一族とそのまま 相馬御厨 そうまみくりや に残る一族に分かれていきました。現在,福島県北東部の 相馬市 そうまし は,柏周辺にいた相馬氏が所領を得て移った先です。

 

⑵  相馬御厨 そうまみくりや との争い

相馬御厨は, 伊勢神宮 いせじんぐう (現在の三重県)の荘園でした。しかし室町時代になると,実際に土地を領有する相馬氏の力の方が強くなり,伊勢神宮への年貢も滞りがちとなったといわれています。そこで,伊勢神宮から何度も年貢を送るように催促や訴えがあり,争いになりました。この頃から,荘園領主の力が次第に弱くなり,土地を治める武士が力をつけていったことがわかります。

この頃,税など大きな荷物を運ぶための交通路は,水上交通が中心でした。当時は,太平洋までつながる現在のような利根川はできていなかったので,関宿近くまで手賀沼やそこにつながる小河川の水路をさか上り,そこから陸路を経て再び江戸川を下り,さらに江戶湾に出て海路を使うという方法が取られたようです。

 

⑶  境根原 さかいねはら の合戦とは

応仁 おうにん らん が終わる頃,東葛飾地方一帯も土地の主導権をめぐって激しい戰いが繰り広げられました。1478年(文明10年)12月,かねてから対立関係にあった武蔵国の 太田道灌 おおたどうかん ど下総国の 千葉孝胤 ちばのりたね が激しい合戦を繰り広げた場所が 境根原 さかいねはら (柏市光ケ丘周辺)です。

 

 

この時,小金原(松戶市)に陣取った千葉孝胤に対し,太田道灌は 国府台 こうのだい (市川市)に軍を進めました。 両軍が衝突した 境根原 さかいねはら では,戰いは一日中続いたと記録に残っています。野戦を得意どした道灌の軍は,千葉孝胤の重臣である原氏や木内氏を討ち,高田(柏市高田)に居を構える 匝瑳 そうさ 氏をも討ち死にさせ,孝胤を佐倉に退かせてしまいました。 戦いの後,太田道灌は敵味方の区別なく戦死者を埋葬したといわれ,光ケ丘周辺には,団地ができる前までたくさんの塚が残っていたそうです。 道灌はその後もこの地方に軍を進めたので,市内は 道灌堀 どうかんぼり (豊四季)や 道灌橋 どうかんばし (根戶)の地名が残っています。

 

⑷ 武士のいわれの残る地名

藤ヶ谷には「念仏塚」という地名があります。これは戰いで逃げてきた むしゃち 武者 むしゃ が寺で念仏を唱えた場所だといういわれです。その近くには,激しい戰いで矢が何本も飛来して橋のようだったどいうこどから「矢の橋」という地名も残っています。また境根,根のように,地名に「根」のつく場所は境界線,つまり領地の境だったようです。

 

歴史に挑戦

 

中学校の名前になっている次の地名を古い順に並べてみよう
①土 ②手賀 ③風早 ④光ケ丘 ⑤柏  —解答はP87-